この記事の要点
- 西陣織は、糸を先に染めてから織る「先染め」の紋織物の総称である。
- 「西陣」は地名ではなく、応仁の乱で西軍が陣を置いた一帯に由来する呼び名だ。
- 分業制が産地を支えてきたが、職人の高齢化と後継者不足が続いている。
- 機の音が消えた工房の跡が、住宅やカフェに変わりつつある。
路地に入ると、まず音で分かる。ガッシャン、ガッシャンという機(はた)の音が、二階の窓から落ちてくる。西陣の古い一画には、いまも家のなかに織機を据えた工房が残っている。私が訪ねた工房では、八十を超える織り手が、帯一本を二週間かけて織っていた。横糸を通す杼(ひ)が左右に走るたび、床がわずかに震える。その振動が、足の裏から伝わってくる。
西陣織は、糸を先に染め、その色糸を組み合わせて文様を織り出す「先染め」の織物だ。西陣織工業組合の資料によれば、帯や着物地を中心に、原料の準備から仕上げまで二十を超える工程に分かれ、それぞれを別の職人が担う分業制で成り立ってきた。糸を染める人、図案を起こす人、経糸を整える人、織る人——一本の帯に、何人もの手が順番に触れる。
地名ではない「西陣」
「西陣」という名は、実は正式な地名ではない。文化庁や京都市の資料が伝えるところでは、室町期の応仁の乱で西軍が陣を構えた一帯に職人が集まったことが、呼び名の由来とされる。戦の跡地が、織物の産地の名になった。今でも住所としての「西陣」は存在せず、上京区から北区にかけての、機の音が響く範囲がゆるやかに西陣と呼ばれている。
消えていく機の音
分業制は、産地全体が一つの工場のように機能してきた仕組みだ。だが、その精密さが弱さにもなる。京都新聞の報道では、織り手だけでなく、糸を染める職人や道具を作る職人の高齢化も進み、一つの工程が欠けると全体が回らなくなる構造が指摘されている。後継者がいない工程から、産地の鎖がほどけていく。
歩いていると、機の音がしなくなった建物が増えたと感じる。かつて工房だった町家が、住宅やカフェ、ゲストハウスに変わっている。老舗が代替わりで姿を変えていくのと同じ流れが、ここでも起きている。建物は残り、用途が入れ替わる。
もっとも、これを衰退とだけ呼ぶのは一面的かもしれない。若い作り手のなかには、帯ではなくインテリア用の織物や、現代美術に近い作品へと素材を応用する人もいる。町家を改装したギャラリーで、西陣の技法を使った作品が展示されることも珍しくなくなった。技術が、着物という出口を離れて別の市場を探し始めている。
工房を出ると、まだ機の音が背中で続いていた。あの音が、この路地からあと何年聞こえるのかは分からない。だが、西陣がそもそも戦の跡地から始まった産地だったことを思えば、土地の用途が移り変わるのは、この場所にとって例外ではなく常態なのかもしれない。陣地が織物の産地になったように、織物の産地もまた、次の何かへと姿を変えていく途中なのだろう。残るのは音そのものではなく、糸を組んで文様を作るという、その手順の記憶のほうだ。
参照
- 西陣織工業組合 公開資料
- 文化庁・京都市 伝統産業関連資料
- 京都新聞 伝統産業の後継者問題に関する報道
